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吉村作治先生の祭り考察 エジプト考古学者、吉村作治名誉教授のブログ

※このページは吉村作治先生からの寄稿を原文のまま公開しています。

2014年4月のアーカイブ


黒森歌舞伎

2014年04月04日

庄内の冬は立春がすぎても止まることはないそうです。節分の豆まきが終ると春遠からじというのは庄内に限ってはないようです。そういう中庄内の日枝神社境内には雪が降ろうと何かおころうと境内を客席にして社殿の中の演舞場を使っての雪中村芝居が行なわれるのです。ですから雪の中でも観客は身じろぎもせず頭の上に雪がつもろうと熱心に見ているのです。時には5時間もこえる演目もあり、人々はただひたすらに芝居をみるのです。そういうことから「雪芝居」とか「寒中芝居」とよばれているのだとのことです。
この地区、黒森は戸数が400戸、人口1700人という小じんまりとした集落です。しかも畑作やビニール栽培など多角的農業をおこし豊かな日本の農村の典型なのです。
中世から近世にかけ本村では豊かさ故に祭りの神事を行うだけでなく余興として歌舞伎を神社に奉納することになったのです。特に旧暦の小正月に当る2月15日にはこの道祖神の祭典をもよおし、そこでこの歌舞伎を演じたのです。ですからこの歌舞伎はおよそ260年余り続いているものです。歌舞伎が2月15日と17日と間に2日空けている理由はこの祭りのために故郷へ帰ってきている縁者たちが集い宴会をやるためなのだそうで、それだけ地域住民とその地域を出て都会で働いている人たちにとって重要な語らいの場であることがわかると言うものです。
さて少年歌舞伎のときはチラチラとふりはじめた雪が大人歌舞伎になったところで本格的な降りになってきました。雪中歌舞伎そのもので風情があっていいものです。しかし本ものはとてもさむくガタガタとふるえながらの見学となりました。

しかしこっちは湯たんぽ、毛布で守られていますが、演じている人はそのままです。
さぞや寒かろうと心配になりました。幸か不幸か今回は予定より早く終りましてほっとしました。しかし月見酒ならぬ雪見酒なんてものではなく、ともかく手がかじかんでいまして大変でした。

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佐多の御崎祭り

2014年04月04日

佐多の御崎祭りを観て感じたことは、日本の祭りの原型を観たということです。すなわち、祭りの要素をつきつめていくとここに至るということです。まず余興が全くない。御輿が主人公なのです。御輿に乗った神さまが、この地域の氏子さん方へ出前のあいさつ、ご巡幸をなさるのです。途中それぞれの地域に御輿を置き、そこへその地域―ここは七つの浦があり、その地区地区に御輿が立ち止まるところを土を積んで作り、そこへ住民がきてごあいさつをするのです。御輿そのものへおさい銭を置くのです。御崎神社は山のてっぺんにあり老人や子供がお参りに行くのは大変厳しいのです。ですから一年に一回御輿に乗った神さまが里へ降りてきてお目みえを果たします。その時村を出て都会で働いていてその場に来ることができない人たちも写真や似顔絵を家族がもってお参りをするのもありなのです。まず神さまを奥の院から神輿に移す行事がすばらしいのです。細く長い山道、神輿は入ってこられません。そこで白い布でおおわれた神袋が用意されまず神事によってそこに一旦神様が乗り移ります。その後宮司によって神の入った袋が山の中腹にまでやってきている神輿にお移りされ、そこからご巡幸が始まるのです。先ばらいの旗印そして後どめの笠その両者にはさまれた形での神輿なのです。全部で七つの浦がありますが、浦の人々は漁民です。浦のうしろにある里の人たちは農民、牧畜民です。そういう人たちにも恩恵がくるように途中に停まるところを作っています。昔は浦と浦の間は山ごえをしなければなりませんでしたので船で巡行したそうです。今はトンネルがあり車で歩行で行けますので問題はないのです。

それと七浦全部廻った後、神さまは空を飛び神社へもどると言うのです。正しくエジプトで私のやっている「太陽の船」の思想です。シンプルでまさしく古代日本人の知恵があふれています。この祭りに日本人の英智を感じました。

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西大寺会陽

2014年04月04日

私はもともと会陽(えよう)と言う言葉の意味がよくわかりませんでした。会陽とは西大寺の住職忠阿上人が今から約500年前に午玉(ごおう)の紙を直径4cm長さ20cmの木製の宝木(しんぎ)にして集まった裸の信徒たちに向って投げて、これを取った者がその年の5福(寿、富、康寧、好徳、終年)を授かるという行事のことを言うのです。もともとは今から1200年前に安隆上人が西大寺を創立したときお連れになった実忠上人が編んだ修正会(しゅしょうえ)をこの時に伝えたところに起因するのです。このとき午玉(ごおう)という紙に書かれた呪文(牛玉、西大寺、宝印と書かれた紙)を14日間の祈祷を経て信徒の長老や講頭に授けていたものですが、世を経て希望者が増えたため信徒に競そわせて取らせたものなんです。
しかし集まる信徒は半ぱでない数です。西大寺観音院に集まった人の数は裸衆とよばれるふんどし一本の男衆が9000人です。その裸衆が一斉にわっしょいわっしょいと叫びながら境内をかけめぐり、そして観音堂にひしめき合うのです。午後10時すぎに一斉に光がとめられ、そこへ宝木(しんぎ)が2つ投げこまれ、それを奪い合う人、人、人、外気温は5度を下まわっています。しかしその前に垢離取(こりとり)という冷水場を通りみそぎをしなければなりません。10年前に私もやりましたが、水が冷めたいという感じよりも痛いという感じの方が強かったです。全身に冷水をかぶりますので、その蒸発熱で湯気が出ます。皮肉なことにその冷水により外気の寒さはやわらぐのです。

ともかくそういう男が9000人上から落ちてくる宝木を取り合うのですからすさまじい光景です。しかも取っただけではだめで、宝木を納める所までいかないとだめなんです。そのため数名が組んで宝木をバトンタッチしながら行くのです。そして場内アナウンスにより「宝木がぬけた」とともに一堂解散となるのです。日本三大奇祭と言われるゆえんです。

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尾末神社大祭

2014年04月04日

「一かけて二かけて三かけて」「四かけた太鼓台がやめらりょか」と太鼓台だんじりに乗っている乗り子が囃すと太鼓だんじりの担ぎ手や町内の家から出てきた見物人が囃し返すという他に類をみないにぎやかでリズムの安定しただんじり歩行をもつ祭りが尾末神社大祭なのです。
苦田秀雄先生の直感では徳島の阿波踊りにその起源があるのではないだろうかとのことでしたが、調べますと江戸末期にこの尾末地区のいた3大豪商、梶、山元屋、高島屋は昔四国の出身者で特に木屋の赤沢家は淡路島から移り住んだ家系ということで、起源は四国という説と九州の童唄に同じようなものがいくつかあるので九州オリジナル説があり後者の方が有力です。しかしこの囃し言葉は32番(今は16番だそうです)迄あったというのですから、その後進歩しこの地域に合ったものがつけ加えられたものでしょう。
太鼓台だんじり本体と担ぎ棒を合わせると2トンにもなりますから100人で担いでもひとり当り平均20kgの重さが肩や腕にきます。それを1日中担ぐのですから大変なものです。初めは、はつらつやっていますが途中からヘトヘトになっている姿を見ますと、祭りのすごさがわかります。旅の途中にふるまいが行われごちそうとお酒の食べ放題飲み放題という日本中どこの祭りでもみられる風景があります。そしてクライマックスは門川漁業組合の前で3台の太鼓台だんじりが同時に「さしくらべ」という苦行をします。それは2トンの太鼓台だんじりをドンドンドンという太鼓の音を合図に「一二の三」で1気に頭の上まで腕で持ち上げ15分間静止させるのです。これを町内巡った後午後にやるのですからすごい負担です。しかし海の男はがんばります。

それとこの祭りの特徴は子供神輿と子供だんじりが3台の太鼓山だんじりの前を走り、その前を黄金の神輿が神職を先頭にお囃子の笛と太鼓で練るという基本に合った祭りなのです。観ていて気持ちがいいものです。しかも人知れずの祭りのため観光客がほとんどいないという独特の祭りなのです。

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種子取祭

2014年04月04日

「種子取祭」と書いてどう読むと思いますか。「タナドゥイ」と沖縄の竹富町では読むんです。沖縄本島では「タントゥイ」石垣島では「タニドゥル」と呼ぶそうです。
日本全国を祭りで廻っていますと、地方地方の言葉が聞きとれないとか、意味がわからないといったことがよくありますが、沖縄は特にそれが顕著です。東京でも沖縄の唄をうたう人は少なくありませんが、沖縄に行って聴く沖縄の唄は同じメロディでも歌詞の読みがちがいます。やはり現場が一番です。ところでこの祭りは約10日ほど行われる自然への感謝祭ですが、種まきのときする祭礼です。いわゆる播種儀礼(はしゅぎれい)なのです。全国にこの種の祭りはありますが、多くは稲をまつるのですが、竹富町では粟の豊作への感謝と祈願なのです。竹富町といいますと今教科書問題で文部科学省と意見が異なって問題となっていますが、町役場を訪れましたが、全くその気配は感じられませんでした。
さていよいよ祭りが始まりますと、島民はほとんどの人(島民が350人いるそうです)が集まり島の中心にある神社とその前の広場で奉納踊が行なわれました。朝の6時から夜の12時までやられるそうです。
今年の祭りのテーマは「うつぐみ」と言うのだそうで意味は一致協力ということだそうです。そして前夜役のある人は1軒1軒島民の家を訪ねにんにくと泡盛りをいただくしきたりだそうで祭りの解説をしてくださった方の息がくさくてたまりませんでした。

奉納踊の中でも「ミルクさま」(ミクロボサツの意)を中心に子供たちが連れられるのをあわしているものがよかったです。竹富島は年々少しではありますが人口が増えているそうで、その理由はとても住み易いということがあるようです。その中でもこの祭りは重要な島の催事で島を出た人ももどってきて盛大に行なわれているとのこと何かうれしい話でした。

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祭り軍団座長 吉村作治 東日本国際大学学長・教授 早稲田大学名誉教授 NPO 日本の祭りネットワーク副理事長

エジプト考古学者(工学博士)
1943年生まれ。早稲田大学入学後の1966年アジア初のエジプト調査隊を組織し現地に赴く。以来、半世紀にわたり発掘調査を継続。「第2の太陽の船」発掘・復原プロジェクトでは、 本格的な修復作業が進んでいる。この8月から新たに「クフ王墓探査計画」を開始。動画サイト「吉村作治チャンネル」では、祭りをはじめ様々な話題を、ほぼ毎日配信中。

公式HP
吉村作治のエジプトピア

http://www.egypt.co.jp/

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