師走祭り
師走祭りは、比木神社に祀られている王子・福智王(ふくちおう)のご神体が、父王・禎嘉王(ていかおう)を祀る神門神社まで、年に一度、3日かけて会いに行く祭りです。神門の迎え火は圧巻で、5mほどの杉櫓(すぎやぐら)が立てられ、燃え上がります。親子のご神体が対面した神門神社では神楽が舞われ、村人総出で祝います。
- 1月下旬の金~日曜日
- 宮崎県美郷町神門神社
・JR日向市駅東口よりバスにて1時間20分、美郷町南郷区「百済の館前」にて下車
- 美郷町南郷支所
0982-59-1600
※掲載された情報につきましては、独自に集積したものであり、変更されている場合もあります。
お出かけの際には各祭りの主催者へのお問い合わせや公式サイトなどで必ずご確認ください。

- 「娯楽が少なかったころ、師走祭りは氏子にとって数少ない楽しみのひとつで、集落は祭り一色になりました。この祭りではいろいろな儀式が行われますが、古代の風習をよく伝えているということで、専門家の研究対象にもなっています。」
- 神門神社 宮司
村田 誠司(むらた せいじ)さん

異国で没した百済の王族をなぐさめる
親子対面の祭り
シシゾウ:師走祭りは、いつごろ始まった祭りですか?
村田:師走祭りがいつ始まったのか、資料が残っていないので正確なことは分かっていませんが、江戸時代に行われていたことは、はっきりしています。この祭りは美郷町にある神門(みかど)神社と木城町(きじょうちょう)にある比木(ひき)神社が2社合同で執り行う祭りで、朝鮮半島にあった古代王国・百済(くだら)の王族の伝説と深い関わりがあります。昔、百済が外敵に攻められた時、王の禎嘉王と息子の福智王は難を逃れ、親交のあった日本へ亡命してきました。その後、国内を転々とする航海の途上で嵐に遭い、禎嘉王一行が乗っていた船は現在の日向市金ヶ浜(かねがはま)に流れ着き、上陸した禎嘉王はそこから少し離れた神門の地に落ち着きました。一方、現在の高鍋町の蚊口浦(かぐちうら)に漂着した福智王一行は、木城町比木に居を定めました。その後、王の居場所を知った追討軍がやってきたので禎嘉王と福智王はそれぞれ軍を率いて迎え撃ちましたが、禎嘉王は戦死し、福智王もその後亡くなりました。神門の人々は禎嘉王の死を悼んで、神門神社に神として祀り、福智王も同じように比木にある比木神社に祀られました。こうして比木神社の御祭神となった福智王が父の禎嘉王のところに年に一度訪問するのが師走祭りで、福智王の御神体は神門神社まで御神幸して禎嘉王と親子の対面を果たし、再び帰っていかれます。昭和20年代の初めごろまでは9泊10日で行われていましたが、その後期間が短縮されて2泊3日になりました。百済の方を祀って祭りの主人公とし、異なる町にある2つの神社が合同で行う祭りであるという点から、全国的にも非常に珍しい祭りだといわれています。
シシゾウ:師走祭りを通じて韓国と交流があるそうですね。
村田:百済王伝説が取り持つ縁で韓国とさまざまな交流を行っています。韓国の皆さんは先祖が関わるこの祭りに強い関心を持たれているようで、これまでに何度も韓国の関係者の方が視察にいらしています。こちらからもテジョン万博が開かれた年に、1300年の里帰りということで神門神社と比木神社が合同で訪問団を結成しました。私もメンバーの1人として韓国へ行き、師走祭りで奉納する神楽を披露しました。そのときに、かつて百済の首都だった扶余邑(プヨユウ)にも行きました。当地での歓迎ぶりは熱烈で、私たち一行が乗ったバスをパトカーが先導してくれました。2010年も「日韓交流おまつり2010」でソウルを訪問し、日本地域伝統文化公演のメインの演目として、師走祭りを1時間40分に短縮したものをソウルの会場で再現しました。


約90㎞の道のりを往来する壮大な御神幸行列
シシゾウ:御神幸はどのように行われるのですか?
村田:神門神社と比木神社は距離にして約二十三里(約90㎞)離れています。御神幸行列はその長い道のりを、禎嘉王ゆかりの地で神事や神楽の奉納を行いながら移動します。昔はすべて徒歩でしたが、今は大半が車を使っての移動です。
祭り初日、御神体を奉じた比木神社一行は朝8時に神社を出発します。行列のメンバーは神職や氏子の代表など総勢18名です。途中、禎嘉王が上陸したと伝えられる金ヶ浜でみそぎを行い、日向市東郷町にある伊佐賀(いさか)神社に立ち寄ります。伊佐賀神社も禎嘉王にゆかりの場所で、禎嘉王と一緒に戦死したと伝えられる禎嘉王の次男・華智王(かちおう)が祀られています。神門神社側も、出迎えのために、神職や神社総代など20~30名の一行が朝11時ごろに神社を車で出発し、伊佐賀神社で比木神社一行と合流します。伊佐賀神社から神門神社までは7㎞ほどで、そこからは歩いて神門神社を目指します。
シシゾウ:御神幸の行列が神門神社に着くとどうなるのですか?
村田:御神幸行列が神門神社に近づくころには日も暮れかかっています。神社近くで神門神社の氏子たちが、迎え火を焚いて一行を出迎えます。これは昔、禎嘉王の追手を煙でまくために野火を放ったという伝承にちなんだものだとされています。神門神社の一の鳥居に至るまでは田んぼの中の道を通っていくのですが、道筋の田んぼには迎え火として燃やすための高さ5mほどの杉櫓が30基ほど立てられます。この杉櫓は、竹で作った骨組みに杉の枝や葉をかぶせたもので、氏子や地域の方たちなどが1週間かけて準備をします。氏子たちは御神幸の一行が通りかかるころあいを見計らって順番に杉櫓に点火していきます。燃え盛る杉櫓のそばを通るのは非常に熱い上に見物人も多いので、神社に着くまで1時間ほどかかります。この壮大な迎え火は師走祭りのハイライトのひとつです。行列の一行はそれから神社で神事を行うのですが、氏子たちは燃え続ける迎え火を見ながら、酒を酌み交わすのが恒例です。ふるまい酒もあるので、地元の人間から勧められたときは遠慮なくいただいてください。
シシゾウ:2日目にはどのような行事が行われるのですか?
村田:午前10時から御神体が和紙でできた衣を新しいものに着け替える衣替えの神事など、いくつかの神事が行われます。比木神社の御神体は袋神(ふくろがみ)と呼ばれ、お姿が見えないように白い布で包まれています。御神体は棒の先に捧げるようにして担がれるのですが、担ぐ人によって重さの感じ方が違って、ずっしりと重いと言う人もいれば、そうでもないという人もいるから不思議です。


共に神楽を愉しみ、ヘグロを塗って別れを惜しむ
村田:師走祭りのもうひとつのハイライトは、2日目の夜7時から神社境内に設けられた舞台で行われる夜神楽(よかぐら)です。舞われるのは高鍋神楽といって全部で33番あります。1番は大体20分くらいかかり、9泊10日で祭りを行っていた時代には夜通し舞っていましたが、今は時間の関係で深夜までに18番を舞います。
神楽を舞う役を務める氏子は伶人(れいじん)と呼ばれます。昔、伶人は世襲でしたが、今は過疎化で集落の人口が減ったため、氏子の中の有志が務めています。私も神職になる前は伶人をしていました。
高鍋神楽は豊作祈願や子孫繁栄を願う舞などいろいろな種類があります。中でもユニークなのは齢200歳とされる鬼神が舞う「寿(じゅ)の舞」です。「老い」を表現するために常に腰を曲げて舞うので舞い手は体力がいりますが、ユーモラスな所作が多く、見ていて非常に楽しい舞です。夜神楽では見物人のために畳を敷いた席を設け、暖をとるための炭もおこしています。このときもふるまい酒がありますので、思い思いに楽しんでいただければと思います。
シシゾウ:3日目の行事はどういったものですか?
村田:3日目は比木神社の御神体がお戻りになる日です。朝からお別れ式といって皆で食事をし、それが済むと比木神社の一行は神門神社を出発します。そのとき、その場にいる人は皆、ヘグロ塗りといって顔を黒く塗ります。ヘグロというのはこちらの方言でススのことです。見送る神門神社の氏子たちは、神社の一の鳥居より先へはついていけない決まりですので、鳥居のところにずらりと並んで、ざるやおけなどの炊事道具を頭上高く振りながら「オサラバー」と言ってお見送りします。顔を黒く塗るのは、別れの悲しみを隠すためといわれています。昔はかまどのススを使っていたのですが、かまどが使われなくなった今では、服についても落ちやすいという理由で、黒のポスターカラーを使っています。ヘグロ塗りは、氏子同士が塗り合うのですが、その場にいれば氏子でなくても容赦なく顔に塗られます。ほぼ強制参加です(笑)。持っていたカメラのレンズまで黒く塗られてしまったカメラマンもいます。別れは悲しいのですが、ヘグロを塗るときは和気あいあいと、とても賑やかです。


百済王伝説ゆかりの宝物を展示する「西の正倉院」
シシゾウ:美郷町でおすすめの特産物や観光スポットを教えてください。
村田:神門神社には、百済王族の遺品と伝えられる24面の銅鏡や、三十六歌仙の板絵などの宝物が、社宝として伝えられています。どれも学術的に非常に貴重なものですが、特に銅鏡については、奈良の東大寺正倉院に所蔵されている国宝の銅鏡「唐花六花鏡(とうかろっかきょう)」と同じものがあることが、調査で明らかになりました。この銅鏡を保管・展示するための収蔵庫として、平成8年に「西の正倉院」が神門神社の隣に建てられました。名前が示す通り、建物の大きさから材料、内部の構造、工法まで、奈良の正倉院をそっくりそのまま忠実に再現したものです。美郷町にいらした折にはぜひご覧いただきたいと思います。


子どもたちに伝統の神楽を伝えていきたい
村田:師走祭りは文化的、歴史的に非常に珍しいということで多くの方に注目していただいています。最近は愛知県立大学の先生が毎年調査にいらっしゃいます。この地に生まれた者の役目として、この祭りを後世にきちんと伝えていかなければと思っていますが、過疎化の影響で神楽を奉納する伶人を務める人間が減っていることが気がかりです。地元の小学校では、地域学習の一環として師走祭りについて子どもたちに学習させています。今後、神楽も教えていければと考えています。私の場合、小学4年生から中学3年まで伶人を務め、進学のために一時期町を離れましたが、21歳で郷里に戻り、再び神楽を舞い始めました。今の子どもたちも進学などで町を離れても、戻ってきたときには私のように神楽を継承していってほしいと思います。
